『らくだの会』沿革2

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 沿革1では全く触れてもいなかった「らくだの会」の名称由来や部室変遷、舞台初公演などより具体的な「らくだの会沿革」の資料が同窓会幹事の辻本(旧姓佐竹)さんを通じて今泉さんから届いたことに、私はいたく感動して一気に資料を読みこんだ。
著者は古希を過ぎて半ばの井口哲郎さんで、大先輩の許可を得ず欲する個所のみ抜粋したことを深く陳謝と感謝を繰り返しつつ、ここに記述する。

廿世紀 青春の群像『金沢大学らくだの会創設譚』;2003年10月発行

句読点をそのままに抜粋すると
「私は昭和二十六年四月入学、第3回生である、・・・・・・無為の1年が過ぎて、翌年の初夏演劇部から誘いの声がかかった。役者はだめだと断ったところ、裏方だという。・・・夏休みがあけてから、私は演劇部を訪れた。
部室は、教育学部の校舎と食堂の間にある倉庫めいた建物の一部にあった、中には、雑然と並べられた大道具や小道具の真ん中に、そんな部屋にはそぐわない応接セットが置かれていた。聞けばそれも舞台道具の一つという。・・・うやむやのうちに入部されられてしまって、「夕鶴」の上演準備にとりかかったが、時代考証といっても、劇団民芸の上演資料がそろっているので、それ以上あれこれいうこともない。体よく勧誘に乗せられてしまった感じで、結局照明係の助手というところにおさまった。」

 この一文から、井口さんは沿革1に登場する相澤さんの1年後輩にあたり、2人は先輩後輩として学内を闊歩、部室が隣同士ということで顔見知りであったかも知れない。井口さんが実際に入部したのが昭和27年の秋、金大演劇部第6回公演に参画したのである。井口さんによると、第1回公演は昭和24年11月、金大理学部講堂で内村直也作「雑木林」となっている。また、古くから北陸三大学学生芸術交歓祭が開かれていて昭和26年に金沢で初演されている。
一方、井口さんの平易簡潔な記述から当時の世相が垣間見えて興味深い。

「(27年)四月に日米安保条約が締結し、その余波が石川県にも内灘接収問題として押し寄せていた。それが大学内にもいろんな形で影響し始め、演劇部員のなかには、体制側の大学の世話になることを潔しとしないグループができて、集団退部とあいなった。
・・・・・・退部組は、金沢大学実験劇場という演劇集団を結成した。」

(余談3)この一節で、演劇部長当時に、急進的な思想の演劇論をらくだの会にも持ち込もうとした部外の学生運動グループとやりあったことを思い出した。彼ら思想家は饒舌で、当時はノンポリシーの私を篭絡するのは時間の問題と考えていたが、会話が全くかみ合わないことに業を煮やしたのか、呆れ果てたのか、やがて来なくなった。

話が横道にそれたので本論に戻そう。
「らくだの会」というニックネーム由来のくだりである。

「年(27年)が明けて、次年度の計画にとりかかったが、なにしろ中心になる部員は三人、−Tと私は、泥絵の具の匂いのこもる部屋で、ボソボソと相談を繰り返した。
名案はなかなか生まれない。そんなとき誰からともなく口ずさみ出したのが、なぜか童謡「月の砂漠」であった。
そして気分を一新するため名称を変えてみようということになり、「金沢大学演劇部」から「金沢大学演劇部らくだの会」、通称「らくだの会」と改称し、正式に大学の学生部へも届を出した。
「夕鶴」や「彦市ばなし」を上演した劇団の「ぶどうの会」という名称が意識のどこかにあったのは確かである。」

らくだの会及び大学を卒業して45年以上経っての井口さんの記憶に敬服するが、この名称が井口さんたちの青春期特有の切ない思い出の中で誕生したのだろ思うと・・・。
 さて、このほかにも井口さんは公演記録など鮮明に記述されていて後輩たちにとって珠玉の資料となることは間違いないが、昭和32年以降のらくだの会については全くご存じないと記されている。
ところが偶然にも同窓会会員・磯部氏が昭和33年入学だから、らくだの会の沿革が点から線でほぼ結ばれたということになる。
                                    了

福井敏雄(昭和40年春卒)2007年記 (敬称略)


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