『らくだの会』沿革1

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 敗戦後の教育改革で、昭和24年第四高等学校から新制大学になった金沢大学に、演劇部『らくだの会』がいつ頃誕生したのか定かではない。
しかし、サークルとして古い歴史のあるフィルハーモニーオーケストラ部OBのネット寄せ書きに『らくだの会』の歴史が垣間見えたのが嬉しかった。
無論、以下の文章だけで『らくだの会』の歴史全容は見えてこないが、その手掛かりになれば、と。

下記の一文は金大フィルハーモニーオーケストラ部の40周年記念誌として、ネット上にフィルOBの1人・相澤英樹さん(昭和29年卒)が寄せたもので、昭和26年春に入学、フィルに入部した当時を、次のように振り返っている。

「・・・私は・・・石川門から学内に入っていた。守衛室の前を通り真直ぐに行くと汚い学生会館があり、その道をはさんだ向かい側に今にも崩れそうな掘っ立て小屋があった。
これこそ金大管弦楽団=フィルハーモニーオーケストラの誕生した馬小屋なのです。
この小屋は二部屋に分かれ、その片方は演劇部(らくだの会といった)が使用していた。
昼食時に食堂へ行くと、その小屋の中から妙なるとは言い難いホルンの音がしていた。・・・」

このことから、『らくだの会』は昭和26年=1951年には存在し活動していたことが分かる。現在も角間に『らくだの会』が存続しているので、少なくとも本年で56年の歴史がある。
 さて、私が教養課程を終えて『らくだの会』に入部した昭和37年=1962年当時、木造2階建ての学生会館の1階部分は比較的大きな食堂で、その2階にオーケストラ、放送研究会などがあったが『らくだの会』の部室はなく、遠く離れた大学敷地の南西方向の、38豪雪で屋根が崩壊した県立体育館の裏にあった。
その部室に行くには、イモリ坂の途中から急な崖道を駆け下りて辿り着くという具合であった。4つほど部室のある建物は木造平屋建てで、主にスポーツ部があって、周囲を木立に囲まれた隠れ家のような長屋であった。

(余談1)部室の前で空手部の荒々しい掛け声を背に、パネル板に着色するためにニカワを炊いていたことを鮮明に思い出した。また、そうした公演準備を終えて暗い坂道を登る途中、転倒したことも。
少し感傷的になったので、話を元に戻そう。
 先の相澤氏の学内描写には今一つ不明な部分もあるが、私が入学した昭和36年当時には学生会館に向き合った建物はなく、広場のような空地があった。
相澤氏の手記通りならば26年当時はこの空き地に<馬小屋>があったのだろうか。
その小屋はまもなく取り壊され、学生会館2階に移されたのだろうか。
ならば、オーケストラ部と同様に『らくだの会』も2階に移転していて当然なのに37年当時には私たちの部室はなかった。オーケストラ部と共に『らくだの会』が移転出来なかった理由が何かあったのだろうか。

そこでいくつかの仮説を立ててみる。まず、常識的な理由はこうである。
ボロボロの掘っ立て小屋を壊して学生会館2階に移動しようとしたら、オーケストラ部のように身軽ではなく、『らくだの会』には大きな舞台装置等があって、2階の小さな部室にはそれらを収容出来なかった。
そこで、県立体育館裏の比較的広い部室に移動せざるを得なかった。
lこれが、最も単純な理由で分かりやすい。

(余談2)入部して間もなく、打ち合わせや読み合わせで常に体育館裏手に行くのが面倒に思えてきた。当時、放送研究会にも所属していたので特にそう思った。
そこで、学生会館にどこか空間がないか、隅々まで捜索したが勿論2階に空き部屋はある筈もなく諦めて階段を下りようとしたその時、左横に少し空間があることに気付いた。空間は1間四方しかない、しかし、4〜5人が集まることは可能だ。
こうして大学本部O氏との苛烈なやり取りが繰り返された挙句、数ヶ月後に珍奇な『らくだの会』分室はその後、会議等で結構役に立った。

 横道にそれたので再び話を本論に戻そう。
学生会館2階に部室が移動できなかった理由かもしれない、もう一つの意外な歴史が突如浮かび上がったのである。
本年4月6日に山中温泉で開催された『らくだの会』吉安顧問喜寿を祝う会の席上、先輩の磯部氏が、
「私が『らくだの会』にいた頃、先輩たちが相当の借金を残していた。そこで、私らがアルバイトをして借金を返した。」と。
借金の背景等について磯部氏は明らかにしなかったが、一同は寡黙で生真面目な磯部氏の想定外の告白に驚いた。
そんな出来事を知らずに、暢気に演劇を楽しんでいた私らは磯部氏に深々と頭を垂れた。
 さて、磯部氏の在籍期間は昭和33年〜38年だから、昭和27年から33年頃(1952年〜1958年頃)にかけての一時期、『らくだの会』は存亡の危機に直面していたのだろうか。
しかも、磯部・石川氏ら先輩の話では「部員も一時期少なかったりして、『らくだ』の歴史は決して平坦ではなかった」という。
他にもエピソードがあるかも知れないが、『らくだ』は借金問題かスタッフ不足で活動が休眠状態に陥った時期があり、学生会館2階に入る資格を失ったのかも。

再会の喜びを分かち合うのも良いが、知られざる歴史にも心を動かされる。
 私は自分の道程の背景に人間味溢れる、言い換えれば人間臭い足跡を辿ることが好きであるから磯部氏や相澤氏の言に触発されて、こうした記述を試みてみた。

拙文に、今後少しでも加筆出来る情報があれば幸いである。
                                                      了


福井 敏雄(昭和40年春卒)2007年記 (敬称略)


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